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元「山羊座の観測所」。タイトル変えました。日本のどこかをさまよってます。
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岐阜県博物館「兼定展」見てきました。
なかなかリアルタイムに追いつきません。
6月10日の話。

この日は早起きして名古屋へ行き、名古屋から高速バスに乗って岐阜県博物館へ行ってきました。
IMG_0871_.jpg
先月終わっちゃいましたが兼定展、見てきましたよー。

岐阜県の関といえば刃物の町!
兼定はその関を代表する刀工の一派です。
関の刀工だと現代では孫六兼元の方が有名なのかな?包丁とか貝印の爪きりとか。
ちなみにウチの包丁も関の孫六だし、貝印の爪きり(足用)も持ってる。めっさ良く切れますw
その兼元一派と双璧をなすスゴーイ刀工が兼定なんだそう。

この兼定展は4月末からやってたのですが、6月に入ってから見に来たのには訳があります。
そう、6月2日からは土方歳三の愛刀「和泉守兼定」が東京から出張してたのだー。
土方歳三の和泉守兼定はいつか見に行きたいと思ってたんですよー。
そしたら兼さんの方から岐阜まで来てくれるとか、これはもう見に行くしかない!ということでがんばって行ってきました。

会場に着いたのがちょうど11時で、この日一回目のギャラリートークに間に合ったのでギリギリで滑り込み。
日本一の11代兼定コレクターによるトークだったのですが、愛が溢れてて面白かったですw

ギャラリートークが終わってから、いよいよ展示室へ。
入口近くに土方歳三の和泉守兼定(=11代兼定)が展示されてたのですが、そちらはあとのお楽しみということで順番に見ていきます。

兼定というのは一人の刀工ではなく、代々兼定の名前を受け継いでいた刀工の一派で初代~12代(戦国~明治)までいるらしく、中でも2代、4代、11代あたりが特に優れているそう。
今回の展示では2代、3代、11代がメインの展示だったので贅沢でした…。

大体時系列順に刀が並んでるのですが、5番目くらいでいきなり兼定一派のレジェンド、2代目兼定こと之定(のさだ)が出てきて最初からクライマックス。
2代目兼定といえば、戦国武将の細川忠興の愛刀「歌仙兼定」が有名。
というかそのせいで兼定のブランド価値上がってる部分はあると思う。
細川家が関わると大体ブランド価値上がってるよねー。それだけの目利きってことか…

2代目兼定の頃の刀は、大まかな傾向として肌が見た感じザラザラしているのですが、2代目兼定の優品になってくると綺麗なお肌(笑)で、素人目では幕末の11代目兼定と見分けるのは困難かなーと思いました。
でも、2代目は字が個性的(笑)だったので、銘を見れば私でも高確率で2代目を当てられそうな気がする!

それにしても…この展示は之定多かったなー。
有難がられっぷりからなんとなーく2代目兼定の刀って数が少ないのかと思ってたのですが、めっちゃ多いやんと思ってしまうくらい充実してましたね…
でもたぶん、兼定の刀が50近く集まってたこの展示が異常事態だったんだよね?

そしてやっとこ11代兼定の展示なのですが、これがまた充実してるのなんの。
兼定展を見るまではなんとなく2代目の作品がいちばん良くて、11代目はそこまでは…とか勝手に考えてたのですが、その考えは間違いだったんだなーということはよくわかりました。

あと、11代兼定の作品で面白かったのが銘。
11代目も2代目と同じく、ウ冠に之の字を切ってる。
ウ冠に之の字を切る、という情報だけを持ってて11代目の刀を見たら「これが之定(=2代目)か!」って勘違いするよなコレ、と思いました。

で。
司馬遼太郎の「燃えよ剣」に土方歳三の和泉守兼定の記述(上巻 浪士組の章)があるのですが。
↓以下引用↓
”二代目である。いわゆる大業物兼定は、異称ノサダといわれている。刻銘を、兼定とせず兼(ウ冠に之)と切るのが癖だったからで、文字を分解して之サダというのだ。”
↑引用ここまで↑

土方歳三のは2代目(之定)でなく11代目ですよー。
あと2代目は大業物でなく最上大業物ですしー。
さらに、「燃えよ剣」では土方歳三が和泉守兼定を手に入れたのは京都に行く前という描写がありますが、土方歳三資料館蔵の和泉守兼定は慶応3年(1867年=大政奉還の年)の作。
その土方歳三資料館蔵のものとは長さの違う和泉守兼定(現存せず)も持っていたらしいのですが、そっちは会津藩主から下賜されたと伝わっているそうなので、そっちも京都以前に手に入れていたとは考えにくいかな。

土方歳三が和泉守兼定(土方歳三資料館蔵)を手にしていたのは、亡くなるまでの二年ほどの間だけ。
土方歳三資料館蔵の兼さんは池田屋事件も未経験だったんですねぇ…

ギャラリートークで11代兼定の略歴をもらったので、土方歳三の動きとあわせて箇条書きにしてみました。
兼定年表_
実は同年代で、同じ年に京都へ来ていた11代兼定と土方歳三。
11代兼定は新撰組の後ろ盾でもあった会津藩お抱え刀工であり、会津藩士でもあったそうなので、もしかすると京都時代にすでに二人は面識があったのかもしれません。
もしかしたらそのときに土方が11代兼定に作刀を依頼してたりして、それで慶応3年に幕臣になったお祝いに届いたりとかして…と膨らむ妄想w
土方歳三資料館蔵の和泉守兼定は池田屋には間に合わなかったけど、戊辰戦争は土方と共に戦ったということで!

ちなみに土方歳三、↑の1868年甲州勝沼の戦いで負傷したあと、会津で療養してたらしいのですが、その時期に11代兼定も会津に戻ってたらしく、この時期も二人が会う機会があったかも?とのこと。
歴史のロマンですねぇ…
さらにの蛇足ですが、11代兼定は明治の俳優 阪東妻三郎に似てたそうな。
調べたら男前…天才刀工で男前とか、なんだタダのチートか。

とまぁこんな感じで勉強になりました。
司馬遼太郎は小説書くとき、ものすごーくたくさんの資料を集めて書いてたという話を聞いてたので、勝手に史実に近い小説なのかと思ってたのですが、あくまで小説は小説ということだったのですね。
でも、司馬遼太郎の小説のおかげで新撰組の人気が出て、子孫の方が堂々と資料館やれたりするのは良かったと思う!

さてさて、その土方歳三の和泉守兼定。
美刃さんやった…
函館から義理の兄の下へ届けられたときは刃こぼれしていたとのことですが、現在のものは綺麗に研いでもらって刃こぼれのあとはわかりませんでした。
大事にしてもらってきたんだなぁ。

今回、念願の土方歳三の和泉守兼定を見られたわけですが、兼定展に来ていたのは刀身だけだったので、拵えも見るならやっぱり土方歳三記念館へ行かなきゃいけないとゆー事で、そっちもそのうち行けたらいいな!
はるばる行ったかいがありました兼定展。

実はこの時期、関鍛冶伝承館の方で孫六兼元の展示もやってて、しかも岐阜県博物館からは無料シャトルバスも出てたのですが、さすがに二つの展示をはしごするのはしんどいなぁということで、兼定展見たあとは名古屋に戻ってウイロバー買って帰りました。

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